人間の情と日常生活の崩壊
千里の目を窮めんと欲し更に上る一層の楼
天災は誰のせいでもない。人間としては、犠牲者を悼み、被災者に同情し、支援するべきなのだろう。それは重々承知している。最後の最後は人間の情以外に頼るもの無し。ギスギスした社会から出て、世界に向ける必要があるし、自国の文明の素晴らしい部分も世界に溶け込み理解させるためにコスモポリタニズム(世界公民主義)も視野に入れるべきではないでしょうか?
日本沈没という映画をもう一度見ました。
オーストラリアに派遣された特使・中村伸郎は日本人の受け入れ交渉をベタベタの英語で行うのだが、オーストラリア首相は「人間はいらないけど、美術品だけもらえないかなあ」って冗談半分だけど実は本音をもらす。
第五章9に挿入された匿名の父親のエピソードである
「配給制度?」外から疲れきった顔で帰ってきた妻に、初老の夫は、かみつきそうな顔でいった。「いつからだ?」
「配給制度」という時代錯誤した言葉に、平和と繁栄にまぎらせてきた記憶、とうに忘れていたはずの記憶が一挙に浮かびあがる。買い出し、焼け跡、バラック生活、飢えを訴える声……
すべては、思い出というにはあまりにも切実な表情でよみがえる。男は「あの地獄」に明日を重ねあわせざるをえない。
「やめてくれ」
と、彼は闇の中で立ちどまり、思わずなたりを見まわしたが、全面節電で常夜灯さへまばらな暗い街路に、人の姿はなかった。──
もう二度と、あの声は聞きたくない。あの悪夢のような時代、地獄のような世界から、長い長い道のりを歩きつづけ、ここ十年、二十年、やっとあのころの夢を見て、
汗びっしょりで眼をさまさなくなり、忘れかけていたのに……また、あれがはじまるのか。
日本沈没というのは現実にはあり得ないけど、日常生活の崩壊というのはいつでも誰にでも起きることだからです。
私たちは誰もがこの時代の衰退に巻き込まれるようになった。それは、もう国や会社に面倒を見てもらう時代が終わったということを考えて生きる意味を自分の頭で考える時期が来る。